東京のネット企業が近しい街に集積するぐらいならともかく、毎週1on1で上司と部下の対面で話そうなんて流れが定着していく今日この頃。某社のフルリモートの記事が頭の中に残っていて、なんとなくあるモヤモヤを書き出してみる。
非同期かつオンラインコミュニケーションの限界は、「あえて言わないこと」と「不満や意見が存在しない」の区別がつかないこと。非言語的コミュニケーションに問題が寄るが故に、変数のnullと””の区別がつかないプログラミング言語仕様みたいなものだ。ベタな表現をすると「顔色が見えない」ことでの意思が共有できているかを把握することの難しさが無視できない。
よく海外でのディスカッションでは、発言しないやつはその場に存在しないことと同じだという話を聞くが、不満や問題を適切に表現できないことを断罪し、それでビジネスが伸びるのなら誰も困らない。
遊びならともかく、仕事においてチャットによるコミュニケーションが増えれば増えるほど、オンラインコミュニケーションの限界に気がつく。意思を共有した時に、なにか腑に落ちてない様というのは、表情からその場で察知し解決したい。
言葉や文字で正しく意思を示すというのはある種のエリートの行為なのかもしれないと思うこともある。多くの人は文字のコミュニケーションなど苦手だ。自分の意思を言語化することは難易度が高い。むしろ意思を表明しないことの方がサラリーマンとして教育されているように思える。
まして、人の書いた文章の読解が得意な人なんてめったにいない。自分の学生時代の国語の偏差値を思い出して、現代文の読解力に自信がもてる人は全体でも数%しかいないハズ。現代文の読解力は推理力に繋がる。つまり空気を読む力そのものだと考えられる。(ひろゆき氏が文字からの空気読みの天才)
基本的には「空気が読めない」「伝わらない、読んでない、読んでも理解できない、理解されない」ことを前提としたコミュニケーションが必要だ。
よく、はてなブックマークのコメントで、書き方の不整合一つで全く話が伝わらなくなり、本論とは全然違うツッコミを受けることがある。一言で言えば感情の地雷を踏んだということになるが、実際のところ、相手が何を考えてそうなったのかはよくわからない。
ただ言えることは、言葉一つで相手の感情一つ損ねることで、残りの文章に書いてあることが全く伝わらなくなる(無視される)なんてことはブロガーにとっては日常茶飯事だということ。
多くの人が、そのようなネットで軋轢を生んだ経験はない以上、会社におけるオンラインコミュニケーションには素人しかいないと考えるべきだし、逆に慣れていれば慣れているほど、己の文章力の限界を入り口として、意思を伝えることには絶望しか抱かない。
だからこそ、上司は同じことを何回も言うことを厭わない。
多くの人がオンラインで相手に正しく意思を伝えるテクニックなどもちあわせていない。むしろ下手な駆け引きをして相手を怒らせたり、全く伝わらなかったりして行き違う方が圧倒的に多いのではないか。
そもそも受け手側に解釈責任を委ねられているコミュニケーションを前提に仕事をするのは危険。その状況を放置することはマネジメントとは言わない。
オンラインで失われるものは、本人が明確に文字で言語化できるまで、不安と恐れを伝える手法が存在しないことに起因する。
人間が人間たる問題は、不安と怖れに支配されることに尽きる。そして、誰しもが自分の視野と知識の範囲で不安と恐れを抱く。そもそも上司と部下には情報の非対称性があるので、部下は部下の視野の範囲で不安と怖れを抱く。(全く同じく上司は上司の視野で不安と怖れを抱きます。別にみんな聖人ではない。)
たとえ同じ情報を共有していても、立場や責任範囲が違う以上、同じ情報においても解釈には差が生まれる。更にジェネラリストはジェネラリストとしての解釈、スペシャリストはスペシャリストの解釈が存在し、アウトプットは、その総体で生まれる。
ただの情報共有だけでは足りず、その情報をどう理解し、何を行動していくか?のすり合わせが不可欠。その選択に意思が乗っている。目の前の情報をどう考え、どうアクションに結びつけていくのか?
ここは人それぞれ、必ず違いが存在する、そして誰もが自分の理想どおりに会社が動いてくれることを期待している。
現実には考えることや着目点にずれがある以上、お互いの願望、意思を並列化することを理想として、すり合わせが不可欠だ。全員が、この期待のズレを放置してはいけない。
そういうプロトコルをオンラインでやるのは難易度が高い。最近のtwitterの状況を見て、ネットで議論するなと言われているが、これがオンラインにおける人間の振る舞いの限界を示す。
そもそも、今僕がやってるように文字を入力してる時間が既に機会損失を産む。すべてはリアルタイムの感情のやりとりじゃないとチャンスを逃したら、すべては過去のものになってしまう。さらに今書いているように文字を重ねることには限界がある。
プログラムで関数は1画面以内にすべき、などという考え方も、それそのものが冗長センサーであること以外に、人の書いた情報の理解の難しさ、受け手側の短期記憶の少なさを言語化しているという要素は否めないのではないだろうか。コードを読む側が理想的に優秀ならこんな話にはならない可能性もある。もっと職人気質としてのコードを読む力が「あたりまえ」の要素になっていてもおかしくない。
それだけ人の意思の共有にはコストがかかる。コーディングの文化は、このコストを情報発信者責任に委ねているが、リモートのコミュニケーションでは情報の受け手側責任にコストが委ねられていることを解決できていない。そういえば発信者に140文字以内という記述ルールを強制しているものにtwitterというサービスがあるな。余計、問題の種になっとるわ。
意思のズレをできる限りリアルタイムに平準化し、調整するために1on1が存在すると考える。人一人の限られた範囲で不安と怖れを言語化されてしまってはもう遅いのだ。それよりも前に不安と怖れの存在を察知し、何が嫌なのか何が怖いのかを取り除いてあげることが働きやすさに繋がる。
お互いの意思が相互に理解されたかは、結果としての行動から推し量るしか手がない(これは部下が上司に対しても、ですよ!期待だけで信用しないこと)。ちゃんと意思が伝わったかどうかは結果としての行動でのみ測られる。それを日常的に観察し、期待通りに動いてくれているか?というのを毎日ポーリングし続けるのが現場のマネージャの重要な責務である。それをオンラインやgithubのpull requestでできるのならリモートもありかもしれないが、pull requestの段階で意思共有のミスに気がついても遅い。
マネージャは絶対にそのことを部下のせいにせず、自分がうまく伝えられなかったこと、そのズレに気が付かなかったことを謝ってください。事象を自責にすることではじめて意思共有の難しさに気がつくわけです。
チャットツールが進化すればするほど、人間のI/O性能の低さと、感情を整理表現することへの限界に問題が近づいていく。
とりあえず、この話が気になった人は、この本を読むべき。
そういうことは一切せず、プロとして相手に解釈をお任せしますという手もあるはあるだろうけどね。一つのプロダクトを作ろうとするならそれは無理。
というのも、共有しなくてはいけないものが自然法則や絶対的な正義に基づくものでない限り、プロダクトデザイン、サービスデザインとは誰かの意思の反映でしかないので。
神は細部に宿るとは言ったもので。そこのコミュニケーションコストの話なんだよね。曖昧なものの表現として企業理念などというものがありますが、これの浸透を計ることそのものが毎日のコミュニケーションに委ねられています。書くだけで物事が伝わるなら、人間もっと幸せになれる。人の感情、関心はリアルタイムで変化するので、その場その場で相互に調整していかないとですね。
以下関連情報ですが、週末からにかけて見た、この辺の話は関連してると思う。
本当に意思決定が必要なことって、実は少ないかもしれない|深津 貴之 (fladdict)|note
こういう話が仕事上、必要だと思ったら対面で話したほうが良いと思います。そして自分が説得力を持ちたいと思うなら、そのタイミング、文脈は一挙手一投足チャンスを狙ったほうが良いと思います。リモートワークなどで非対面になることで物事が後ろ後ろに行ってしまうことがチャンスを失うことになると思うんですよね。サービスデザインにおける意思決定は、深津さんの言うポリシーの問題でしかないことが圧倒的ですし、そのコラボレーションで良いサービスを作ろうと思って議論を尽くそうと思ったらそもそもオンラインでは冗長だし、文字では遅すぎるし、その場の空気感重要、何より上方影響力がある人と一緒に議論したいわけです。そういう奇跡が一ヶ月の一分でも可能性があるのなら、そのチャンスを選択したいかな。
p.s.テレビ会議システムは進化してるんだけどねー。モバイル回線で「すごく大切な一言」が伝わらない問題さえ解決されれば。
https://www.cisco.com/c/ja_jp/products/collaboration-endpoints/index.html