不確実性を楽しむ

WebSigのメンバーで飲んでいたら、代表の和田さんが突如、WebSigのメンバーで論文を書きたいと言い出して議論に入る。しかし、まだ的が絞れていない上にお酒が入ってるので、議論はあっちにこっちに。取り組みの魅力が伝わらなくて諦めの悪い和田さんは頑張るが、メンバーも簡単には納得はしない。

ここで何かの目的意識を語れるぐらいシンプルな話だったら、そもそも面白くない。いったいその話の魅力は何かわからないぐらいで丁度良い。

そもそも論文でなんらかしらの新規性を出したいと思っているのであれば、研究なくして答えなど導くことはできないのだから、僕はそのやり取りをニコニコ見ていた。

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帰り道にこのことを考えていたら、心の中で別のことがひっかかってKMDの学科名である「メディアデザイン」なる言葉を調べる。こういうのをセレンディピティと呼ぶらしい。

僕の中で訳の分からない言葉ナンバーワンと言えば「何の学位を取られたんですか?」という質問に軽く答えられない「メディアデザイン」という言葉である。

そもそもメディアデザインとは何だ?

メディアと聞けば、テレビであったりラジオであったり雑誌であったりと即物的な概念に発想を寄せるのが人間の性なのだが、別に僕はラジオ番組の作り方を研究したわけでもないし、マスメディアの研究をしていたわけでもない。メディアと聞けば広告代理店が思いつくし、KMDの卒業生も電通などに行っているらしいのだが、別に広告的な意味合いのメディアを勉強していたわけでもない。

デザインがビジュアルデザインのことを差すわけではないというのは流石に僕の本業的にも理解できるが、メディアとデザインがくっつくとメディアという言葉が大きすぎて難しく感じる。

そもそも僕の研究のタイトルは、「インターネットの情報発信を用いた信頼指標に関する研究」なるものである。

インターネットでの信頼?なんじゃそれ?と思う人もいることだろう。とても無形な世界観で、それのどこがデザインなの?と突っ込まれるケースもあるだろう。

「メディアデザイン」という言葉を検索して、日経新聞のサイトに掲載されているKMDの紹介ページを見るとこんなことが書いてある

慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科

創造社会ではゼロから1を生み、価値化できる力が必要
生産性や効率に代わって「創造性」が経済的価値を生み出す創造社会が到来しています。創造性とは、新しいアイデア、表現、プロセスをゼロから生み出す能力のこと。

おお、なるほど、ゼロから1を生むための教育ということか。KMDで一番刺さる言葉であるメディアイノベータという言葉はよくわからんと思っていたが、こっちであればしっくりくる。

「ゼロから1を生み出せる人材を育てる学科です」

と言えば良いのか。これはこれで今、仕事の世界でやってることに対して本質的すぎてプレッシャーだなw

僕自身がKMDに興味を持ったのは、確かに自分でWebサービスを作り出す方法論を身につけたかったからである。それは決して実装技術の話ではなくて、どういう風に考えれば、新しいものが生み出せるのか?という部分だったので、なんとなく印象として持っていた「メディアデザイン」という言葉が的外れではなかったということに今更ながらたどり着く。

既に働いているいい社会人のオッサンが、わざわざ大学院に行くわけなので、専門外で明確な就職先市場が存在するような、わかりすいベネフィットしか得られない学科に行くほど暇ではない。

唯一コンピュータサイエンスを深掘りしたいというのであれば選択肢はあったろうが、そもそも10年前にMOTの学科を受験したのも「実装技術なら自分でどうにかできるので、自分はどういうコードを書きたいのか?と言う哲学を身につけるための教育」を受けに大学院を探していて、当時は自分の感覚に合致する学科がなかったのでWebサービスをやってる会社に転職したというのが、後にKMDを受験することになった経緯である。

また、別の記事にも書いているが、僕の活動が、たまたま多くの人に支持いただいたモバツイというサービスは、twitterという哲学に共感したツールを作ったまでであって、自分でメディアを作れたわけではない。これはKMDの面接の時にも言った。

今言語化してみれば、やはり不確実な世界へのチャレンジだと思うからこそ、そこに身を投じる価値があったということであろう。

更に言うとマインドスコープという会社でのチャレンジはモバツイを下敷きにした新しいメディアを作るという取り組みだったハズだが、経営も不慣れな中で、いつの間にかコンサバな方向に戻ってしまっていて、そこでの哲学のなさは自分自身の限界を示していた。あの時にいくらかの信頼を失ったことは自覚しているが、見返したいと思っている部分でもある。今思えば企業理念からこのことをメッセージ化するべきであった。自分自身のために。

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メタップスの佐藤さんが書かれている「お金2.0」という本で、ビットコインなどの仮想通貨や彼らがチャレンジしている評価経済社会の仕組みのような取り組みのことを「Fintech 2.0」と表現している。

クレジットカードや個人間送金のような「市場規模も規制も明確に存在する」取り組みのことではない。規制が存在するということは、法律というコードで適切に表現できている世界なのだから、決して不確実性の高いビジネスモデルではない。

まだまだ海のものとも山のものともつかない(と思ってる人が多い)世界のことを2.0と表現しているのだが、こういう世界を、既存の何かに例えて理解するのは危険だと確か書いてあったのが印象的だった(あれ、それ落合さんの本だったかな)

よく、自分が理解できないものがあると、やれバブルバブル、やれ規制規制と言う人がいるが、コードで表現できてないものを無闇やたらに規制するのは非常に危険である。

最近の騒ぎで、案外、仮想通貨に寛容な日本の構図が見えた。厳しく言えば、誰かの体たらくだったのかもしれないし、思ったよりイノベーションに好意的なのかもしれないし、麻生さんのプレッシャーを忖度したものなのか、その辺の真意はわからないが、いずれにせよ規制が作られる前に荒稼ぎする人の存在も含めて、いろんな物事が起こって、新しい概念の勃興を見てるのは楽しくて仕方ない。そのような不確実性は楽しんでナンボだなとは思うところである。その中で、失敗しないような選択ができれば理想的な遊びなのかもしれない。

ビットコインのような仕組みは、わからなくて上等、それに乗るか乗らないかはやり方次第であるが、それを金のようなものとか、チューリップ市場だとか、過去の歴史に当てはめるべきなのかどうかは微妙である。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とはよく言ったものだが、これに傾倒しすぎて思考停止している人も沢山いる。既存の何かに当てはめて理解しようとしなければ、その概念を理解できない人は思いのほか多い。

それだと、それが本当に新しいものだった時には本質を見誤るし、そもそも、それほど既存のメタファに当てはめられるほど経験や知識を自分が持っているのか?という問いとの戦いであることに気が付かない人は沢山いると思う。

わからないものはわからないとしたまま受け入れる姿勢も必要だと思う。何よりビットコインの仕組み自体が破綻しているわけではないのだから。所々の問題は、ビットコインが当たったからこそ問題になった、単純にそれだけの贅沢な悩みのことである。オッサンの会話じゃないんだから、そういう問題だけをあげつらってビットコインはやれダメだみたいな話をするのは苦手である。

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KMDの話に戻すと、研究として進めていたものは、最初の1〜2年はかなり漠然としていた。とはいえ、それでは論文に落ちないので、どこかの段階から研究内容の言語化に取り組むことになる。ただし、そこまでは言語化を焦るのではなく、概念は概念として、さまざまなアプローチで突っついてみて、そこに関連するや否やを見極めていく。しかし、このプロセスを一人で考えるのは難解で、アウトプットしながらの議論が必要だ。

まるで、ドラマ Dr.Houseで沢山の病気の可能性を見出し、時には実験してみて未知の病気を推測していくような創造的なプロセスだとも言える。この段階で、無理に実装に持っていっても良い研究にはならない。

そこから言語化、モデル化して具象的なアプローチにまで持っていくには、いくつかのブレークスルーが必要で、僕はその部分でとても苦労した。ひたすら歩きながら考えたし、本屋でいろんな本を大人買い的に買い漁り、何かインスピレーションに繋がることを考えて考えて考えまくっていた。

最後は、お風呂でちょっとしたブレークスルーにたどり着き、それでも曖昧だった部分は、一度目のプロポーザルの発表で先生方にボコボコにされたのと & 同じく先生方の助言を借りたことで見えてきたというのが僕の経験談である。

そういう経験があるので、和田さんが言っていることが意味がわからなくても全く気にしていない。意味がわからないというのはいささか大げさな表現でで、本当はなんとなくわかっているのだが、そこで話されている一つ一つの、「みんなのひっかかり」をひたすら整理していって、そこに関連する情報を更に整理するという行為で研究すれば良い。それをやっていけば、そのうち何かの論点にぶち当たる。そこから先は、ひたすら考えるフェーズになる。

ここで、できれば携わっているメンバー全員が、それぞれの経験と課題設定について共有されたメンタルモデルの中で、オフラインでひらすら考えるような状況になってると望ましい。

そうやって不確実性を楽しむことプロセスそのものは楽しい。

どこかこれまでの人生、不確実な開発プロセスなどは経験してきたが、その時間の中で「考えこむ」という行為は非生産的で遊んでいる時間であるとばかり思っていた。設計図や図面を書くという行為は何かを考えた結果のアウトプットであるが、これまであまり難しい仕事をしてきていなかったのか、考えこんで手が動かない時間が苦手だった。こう書くと怒られるかもしれないが、仕事とは手を動かしてナンボというのが学部卒であった自分における感覚の限界だったかな、というのが個人的感覚としてある。

実際は「考える」というプロセスは必要である。

過去、ひたすら考えた経験で大きいものは、多分3つで、一つは最初の会社の新製品開発プロジェクトにおける制御システムの設計と、もう一つはモバツイの何かを考えている時。そして、Shopcard.meであろうか。

Shopcard.meについては、もしも僕が今の段階でメンターになっていたら、もっともっと考えろと言ってたと思う。今考えると、当時は考えるというプロセスが甘かったように思える。そこでリーンスタートアップ的手法を使おうがなんでも良かったが、それをやることが大事なのではなく、さまざまな方法論で「考えること」を促進させるための活動が必要なのだと思う。

そのように考えられるようになったのも経験の賜物と言えよう。

いずれにせよ自分が「理解できないもの」を理解できないからと言って、思考停止したり放棄するのは得策ではない。

それにもし興味があるなら、考えて考えて考え続けた先に、それが何であるべきか?が見えてくるかもしれない。そのようなプロセスの先に楽しいことが待っていることもある。待っていないこともある。そんな損得を考えているようであれば果実は得られない。

ちなみに、最近BASEが海外進出するならこういうことなんだろうな、ってのが漠然と考えるようになった。こんなところで書いてるぐらいだから、具体的な何かがあるわけではないのだが、仮に進出する場合、今のみんなや競合他社とされている会社がわかりやすく理解できるサービスモデルではなく、今は「まだよくわからない何か」がサービスとして言語化された先にある世界だと思っていて、それが、なんとなくこれかなってのを思い始めている。妙な予言めいた何かだけがあって、そこに期待している。この会社に関わるメンバーがそこにある不確実性にどうアプローチしていくのか?が楽しみである。

p.s.この記事書いたら、昨日一緒に飲んでた足立さんからコメントもらったので忘れないように書いておこ。

>「メディア(デザイン)」については、もう答えが出ているかもしれませんが、「情報と受け手の接点(のデザイン)」という意味ではないでしょうか?
>マクルーハン的な「メディア」なんじゃないかと思いました。

おお噂のマクルーハンw タカヒロさんのコメントでしか見たこと無い名前ですた(もぐり)

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