信頼にはカテゴリがある

VALUが最近話題であるが、その下地にある評価経済社会という概念がある。

評価経済社会とは、人から信頼されている人は、さまざまな取引が円滑に進みやすくなることで、「評価されている人は何かの調達がしやすくなる」、もしくは「評価されている人は何かの調達価格が下がる」という概念である。

例えば友達が沢山いる人であれば、引っ越しを手伝ってくれる人がいることで、お金を出して引越し業者に頼まなくても、コストが安く引っ越しができる、ような概念だ。

さらにVALUのように、自分のVAを譲渡することでお金まで調達できる世界が生まれた。

VALUが画期的だったのは、対価と調達の関係性が必ずしも連動しないこと(要はVAに価値がないこと)、と、VA自体が流動性を持って、購入者も売ることができること、という2点のポイントだとおもう。この2つは評価経済社会の文脈には関係ないのだが、これに伴って発生する経済性から、VALUは評価経済信奉者にポジティブに受け入れられたという部分がある(ように思える)

しかし、同時に、この2点の特徴を持って、例のヒカル氏事件が起きたというのは否めないだろう。

ただ、彼がミスをしたのは、ヒカル氏のチャンネル登録しているユーザ数260万に対して、VALUのユーザ、わずか2万人程度を敵に回しても問題ないと思ったのであろうが、インターネットの面倒くさい層を起こしてしまい、挙げ句の果てはテレビに取り上げられるような、ある意味、社会的影響力、もしくは社会的行動力のある層を敵に回してしまったところにある。

そもそも何故、こんな誤認が起きるのか。

それは「インターネットで得られる信頼にはカテゴリがある」からだと思う。

評価経済社会で言われる「信頼」という言葉には、「誰が一体、誰をどういう理由で信頼するのか?」という部分が漠然と抜けている。あえてぼかしてあると行っても過言ではないのかもしれない。

ヒカル氏にとっての信頼の拠り所は、「Youtubeのチャンネル登録者」だ。それが260万人いるから、わずか2万人のVALUユーザーは敵に回して問題ないと思ったわけだし、重複するユーザーはいないと踏んだハズだ。

Youtubeのチャンネル登録者のうちの「本当のファン」が、VAを購入する人がいるのであれば、大切な人達の信頼を踏みにじる行為をしたということになるが、おそらく、VALUのユーザーは人気者にぶら下がり、流動性に飛びつく投機目的でしかなく、お互いのクラスタに重複はないと踏んだのだと思う。

つまり、VALUは、カメラをまわして突撃して失礼な対応をして面白い動画を撮影する対象のような存在、、、つまり、信頼などは構築する必要がない相手だと認識したから、「最近話題のVALUでいっちょ暴れてやるか」ということになったのだろう。

このインタビューにいくらか、それらしき様子が伺える文脈がある。
独占取材「YouTuberヒカルVALU大炎上」の舞台裏 VAZ社 森代表インタビュー

—— 応援してくれたファンの気持ちに背いた、という意識はありますか?

森:ファンを裏切るというような意図は、ありませんでした。彼が普段稼いでいる額からすると、VALUで(ファンに)損をさせて儲けることに全くの合理性がないんです。また(VALUの)株式上場の仕組みも知らなかった。SNS感覚で始めたものが、お金が絡んでしまったためにここまでの騒ぎになってしまった。

—— 意図はなかったとしても、結果的にヒカルさんらのVA売却による暴落で損失が出た人たちがいます。その中には純粋にヒカルさんを支援したいと思ったファンもいるかもしれません。

森:たくさんのヒカルのファンや視聴者に損害を与え、みんなが困っているという状況には、正直見えづらいところはあります。とはいえ、ヒカル自身はこのように世間を騒がせたことに関しては申し訳ないと思っています。だから自社株買いをしました。

それぞれのクラスタは違うので、YoutuberのファンとVALUで買い増ししたり損切りしたユーザーを一緒にして責めるなということを暗に述べているように思える。

そして、彼らが守りたい「信頼のカテゴリ」は最後に集約される

森:買い戻しをすることで、VALUの件に関しては一旦は最善を尽くしたと(考えています)。その上で自分が世間を騒がせ、関係者に迷惑をかけてしまったことに関しては、自分がいかに世の中に貢献できるか、社会に貢献できるかを見せることしかない、と思っています。

YouTuberとしての活動も引き続き続けていく予定です。

ここから伺えることは、彼らが維持したい信頼の範囲にVALUユーザーは対象外であり、Youtubeのファンは信頼を維持したい対象だったといういこと。

インターネットのような情報の非対称性の中から見える人間性はあくまでも一部である。その限られた情報の中から期待をされたり、信頼をされたりなどのことが起きる。一般に信頼という言葉には、「この人は信頼できる人なので,犯罪を犯さないはずだ」などの,人格的に望ましい人物であると判断することや,社会倫理に照らしあわせた上での期待を含むことがある。

ところが、我々はインターネットの向こう側の人が普段何をやっているか?などは驚くほど知らない。相手を全然、知らないのに、勝手に信頼をしてみたり、さまざまな期待や尊敬をしているという状況とも言える。

このことはもっと意識して、信頼できる範囲には限界があることを意識すべきだ。

つまり、彼の場合は、「Youtubeで面白いコンテンツを提供する人」としては一定の信頼を得られているが、それ以外のところで信頼を踏みにじった。

soundcloudやnanaを活用している人は音楽というカテゴリについて信頼されてることは認められるだろうし、githubでメルカリに採用されるぐらいの開発者は、開発者としてのカテゴリについては信頼できるだろうし、クックパッドでつくれぽが多数ついている人は、料理というカテゴリについて、なんらかしらの信頼を得られている可能性が高い。

しかし、例えば開発者として一流だったとしても、借りたお金を返さない人であったなどのことは本来、我々は知る由もない。しかし、それを混同して何か問題が起きた時に、開発者としての実績も含めて失望するのは的外れだ。

でも人は往々にして、一つのスキャンダルで本来関係のないカテゴリについての信頼までも失ってしまうことがある。

ウェブサイトにおいて得られている信頼については分断されている。つまり、ヒカル氏がYoutubeの信頼を失うかどうかは不明である。彼らが本当に思っていたように、260万人のユーザーが、VALUのようなサービスを使う層でないのならば、彼にとっては、今回のことは何も問題がなく、ヤクザの事務所につっこんだら、家を特定されて面倒くさいことになってしまったレベルの事件で済むのかもしれない。(それは今後の動向が注視される)

いずれにせよ、インターネットを経由して得られている信頼は、「限定的」であることを、インターネットを活用するすべての人が意識すべきだ。

評価経済社会が様々なWebサービスの文脈に乗って盛り上がることについてはなんら違和感はないが、あくまでも「信頼にはカテゴリがある」ということを意識して付き合っていく必要があるし、その人が得られている信頼は「何のカテゴリの範囲だけなのだろうか?」というのを常に意識して評価すべきだ。

間違っても評価の範囲、信頼の範囲を、「人格的に望ましい人物であると判断することや,社会倫理に照らしあわせた上での期待」をしてしまうのはオススメしない。それをインターネットを通じて抱いてしまうのはオーバースペックである。

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