体験、体感は目の前の情報感度に対する視野が広がる

ネットであらゆる情報が見えるようになった。あらゆる情報が、だ。

ところが、同じ情報を見ていたとしても、その情報に対して、実感を伴った経験を持っているか持っていないかで、その情報から感じられる感度が違うことに気がつく。

この感度を「情報に対する視野の広さ」と考えてみる。

一番簡単な例が、目の前にあるスライドに書いてある数式やプログラムが理解できている人と、理解できていない人では、その情報量から感じられる量が違う。

目の前に、海外旅行の時に食べたおいしい食べ物の映像がテレビに流れてきて、思わずよだれが出てしまうとしたら、それは、旅行の時に食べた体験が脳内にあるからだ。映像は、あくまでもそれを引き出すための頼りにすぎない。

ニューヨークの景色は、行ったことがない人よりも、そこを歩いた経験がある人の方が感じられるリアリティが変わってくる。

それは音楽、写真、映像、AR、VRなど、すべてのことに言えるのだろう。あとは、実感するための能率がメディアによって違うのだろう。文字より映像、映像よりVR、、、なのかもしれない。

しかし、いずれにせよ「体験」は全てに勝るし、実体験をネットのコンテンツが上書きすることはありえない。

体験の有無によるコンテンツから得られる情報量に視野の違いをもたらし、体験と繋がったほうが圧倒的臨場感を感じるようになるからだ。

もちろん、空の上からの景色、宇宙の景色は、ふつうの人間ではコンピュータを通じてじゃないと体験できないようなものがあって、そういうコンテンツの可能性は一切否定しない。が、その情報も、もっとも広い視野で楽しめるのは、その景色を実感した人の特権だ。それ以外の人は、見ているようで、フィルターがかかっているように見ていない可能性が高い。

当たり前のように見えるかもしれないが、そのような視野が広がる体験というのは意外と難しく、そんな感動こそが、どんなジャンルでさえ、何かをやってみたという学びの結果というものなのかもしれないので、ブログとしてメモしておく。

ライフハックとして、海外旅行に行くのは、テレビや映画に流れる海外の映像を、より楽しむための下ごしらえだという考え方もあるかもしれない。
ITは持たざる者と持つ者との距離感を縮める力はあるが、同時に、持つ者の体験をより深める道具にもなる。差は小さくなっても、決して逆転はしないのだろう。

なお、逆に言えば、「知ってしまった」が故に、もはや知らない人の気持ちがわからなくなるということでもある。これをオッサン化と言うのだと思う。

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