歴史における情報の非対称性

明智光秀や、石田三成などの成功者の近くで何かを行った人の歴史は不明なことが多いようだ。

特に明智光秀の場合は、織田信長との関係性において、織田信長を正と取るか悪と取るかで、評価が180度変わる可能性も高い。

しかし、織田信長は間違いなく成功した人物で、その故に多くの史実やドラマにおいて、立派な人物として描かれている。戦において成功した人が、多くの人にとって望ましかった人物とは限らない。ところが成功したというバイアスが、そのような負の評価をなかったものにしている可能性がある。

別の歴史の話がしたいのではない。往々にして、その人の悪い評判というのは、その成功した経歴の中で、多くの人の中でなかったことになっているケースがある。それは現在においてもそうで、大人であればあるほど「わざわざ自分の口から言うことではない」と墓場まで持って行ってしまうからである。

このような問題が表面化するのは、本気でその相手を蹴落としに行くときに限られるようだ。

最近、そのようなことが多々起きているようで、ゲスの極みの件では、どうも紅白に出たというメジャー化がトリガーだったように思えるし、宮崎議員についても、育休宣言によって大きく注目された後に出てきた。また、乙武氏についても立候補の話が出てきての返り討ちとしてしか見えない。

今年に入ってから、ア・バオア・クーから逃げようとするザンジバルを、集中砲火で叩きのめす構図が目に浮かぶようなソーシャルとマスメディアの組み合わせの騒動を何度も見てきた。

明智光秀に対する悪評も、本気で相手を叩きのめしにいこうと思った結果、世の中がバランスを取るために織田信長 vs 明智光秀と言う構図であれば理解できる。織田信長が実は相当のやんちゃものだったことは知られているが、どこか、多くの人の納得感として、若い頃はうつけものだったが、天下を統一するころには立派な人物になっていたはずだという整理がされていることが多いが、実はそうでなくてすごく傲慢な征服者だったら評価はどうなるのだろうか。

僕の中の織田信長は、昔キムタクが演じていた映像を思い出されて、アレじゃ立派な人にしか見えないわ、とジワジワ影響されてるのは否めない。史実では、結構過激な焼き討ちなどをしているようだが、多くの人の中で、「あれはきっと仕方なかったに違いない」みたいな形で、正しく思いたい方向にバイアスをもっていきたくなるのが、成功者に対する評価というものだ。

別にオチも主張したい論点もないのだが、世の中は往々にして、出てこない情報というのがあって、何かをきれいに理解しようとすると、その部分が解釈する人の都合の良い形で整理されてしまうことが多々あるし、何かをトリガーとして、その部分が、拡大解釈されて批判される自体になって、日本中を巻き込んだ炎上騒ぎに発展してしまうこともある。

そこそこ長く生きてると、そういうことの一つや二つは気になる状態になっていて、あぁ、あの時、問題にならなくて良かったねと思うこともあれば、またその騒動に巻き込まれないといいよね!などというとことが、割と現在進行形で起きているであろうことを心に抱きながら、また、僕の全然知らないところでもいろいろあるよね、そりゃ!と思いながら、世の中は面白いなぁと思って歴史のwikipediaを見ていた日曜日の黄昏時のツイートでした。

記事と関係ないけど、安部礼司 11年目突入おめでとう!

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