いじめっ子、いじめられっ子の論理から見る、正しい決断から逃げてしまうこと

以下の記事の、いじめられっ子が、いじめっ子の暴力に屈してしまう心理ロジックについて書かれた記事の、この部分に非常に共感した。

そう、「逃げる」「頼る」は何も恥じらうことじゃない。いじめから生き延びるためには正しい。圧倒的に正しい。そう誰が煽ろうと何を強いてこようといじめの中で苦しむより絶対に正しいのだ。みんな逃げろ!

逃げないのである。
ではなぜ、その「正しいこと」がいじめられっ子にはなかなかできないのか。どうして、自分の命と尊厳を守るための行動に、ためらいを覚えるのか。
  <中略>
「逃げる」のも「頼る」のも想像以上に体力がいる作業であり、かつ能動的な行動だ。何より未来が予測できない。いじめはいじめの内容分だけのダメージがくると想定できるけれど、「逃げる」「頼る」は結果がわからないのだ。

いじめられっ子が逃げない理由

よりストレスフルな状況に陥る可能性が存在する時に、どういう選択を取るか。

事実としての「逃げる」決断を放棄して、正しく決断をすることから逃げている状況と言えよう。

実際のところ決断することから逃げてしまうということは、大人になっても往々にしてありうる。

更に言えば、逃げ癖がついてしまう人間は、このことを素で行ってしまう。
どこかセンサーがついていて、一定負荷以上は防御スイッチが入るが如く、殻に閉じこもって決断することから逃げてしまう大人は存在する。

それが処世術として成立している人もいれば、結果として追いつめられてしまう人もいる。前者も実際のところ処世術のように見えて、社会的には追いつめられてしまうケースは往々にしてあるのだが、ただ、本人が至って幸せというケースもあれば、逆に不幸というケースもある。

本人が最終的に満足して死ぬまで幸せなら、それは幸せな人生だったと言える。

もし、いじめっ子の論理も、正しい決断から逃げているというロジックで同じように語れるのだとするならば、それが処世術として成立しているや否やと言う違いだけが、いじめっ子といじめられっ子の立場を分けているのかもしれない。

自分は、継続的にいじめられたという経験はないが、相応に人間関係に苦労したことはある。でも、それが嫌な思い出になっているものはない。しかし、それ以上に、ストレスフルな状況下で正しい決断から逃げてしまったという記憶の方は、嫌な思い出として沢山あるような気がする。これを責任を取るであったり、見逃さないということが大人だと思うので、子供の世界は難しいなと思うと同時に、大人も大人としてしっかり決断していきたいものである。

 
 
 

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