なんでネットでは割と常識的に考えておかしいと思うことが、ビジネスだからという理由でまかり通るのだろう、と思うことがある。
イノベーションという意味では、そのような余地があることは非常に大切なことはわかる。しかし、常識的にやらない方が望ましいと思うことをやらない人が損をして、やっちゃったもの勝ちの方が、結果として社会的評価を得る方向に変換できるのであれば、その状況は気持ち悪い、と言わざるをえない。
企業における社会的評価の高さとは、売上や利益で判断される。
そこにコンプライアンスのパラメータが加わるわけだが、通常コンプライアンスに出てくるものは、日本の法律に違反するものや、顧客感情上、許しがたい「一般常識」に照らし合わせて設定される。
一方で、ネット上にはびこる「◯◯をしてはいけない」という言説に伴うものは、大抵「Appleがリジェクトするから」「検索エンジンのランキングが落ちるから」などと言った、プラットフォーマーによる罰が発生することでしか是正されない。
企業が行うステマなどは境界線がリアルな部分に足を踏み込んでいるが、昨今のステマ問題も、短期的には、Yahoo!ニュースにリジェクトされるからというプラットフォームの罰でやめるという文脈を超えていないように思える。ステマに関しては法規制が連動してるし、広告業界というビジネスプラットフォームがあるので水面化ではいろいろあることだろうが、表面的にはそう見える。
小学生の時に、他の怒られてる子供の前で「先生に怒られるからやめろ」って言ったら、何故かこっちが、すげー先生に怒られたことある。先生曰く「先生に怒られるからやらない」ではなく、「それをやってはいけないからやめるべき」だと言うことだったようだ。まぁそれを伝えるためなら、何も怒らなくても、という気はした。子供ながらに学んだのは「余計な一言は言うな」でしかなかったが、まぁ、この記事も、きっとそういうことなんだろう。
現状、企業のコンプライアンスの範囲に、ネットでの不誠実な行為は評価として含まれないというのが現状である。
これは社会的評価と、インターネット上の評価が連動していない。もしくは、社会的評価を下す人間が、インターネット上の不誠実な行為を判断する力がないことから起きる問題だとも言える。
この感覚を持つことは、ネットが常識になってればなってるほど暗黙的になってしまうが、重要だと思っている。
逆に言えば、ネット上で活躍することが、その人の社会的評価につながらない。繋がるとすれば、それをリアルな評価軸である売上や利益に変換することで評価される。もしくはメディアという文脈で言うと、テレビや新聞、ラジオなどの、面や時間に制約があるメディアに出演することで評価される。これもある種のランキングとも言える。ネットの活動のイグジットが、潰す潰すと言われている従来メディアになってるというの面白い現象とも言える。インターネットと言う壮大なAKB劇場をネットで野心を持っている人は活動しているのかもしれない。ネット単体で見るとだと少し限界を感じるところがあるが、もしかしたら、ネットはそういうものなのかもしれない…。
以下の記事で、称賛と疑問の2つの感想を抱いた。
GMOペパボ、リワード広告への出稿脱却を宣言 まずはアプリ「minne」で 出稿側にも「脱リワード」の動きか – ねとらぼ
一つは、単純に感情的な賛同である。上場企業がいち早くこのようなことをやるのは素晴らしい。それに自分がいた会社がこういうことをし始めるのは素晴らしい。
しかし一方で、それでいいのだろうかというのがこの記事の内容に書いた趣旨になる。
リワードの問題点は、ランキングが不正に操作されることよりも、AppleやGoogleがシンプルなダウンロードランキングでしかアプリの露出が作れていないという面もあると思う。それらを逆手に取ったハック手段がリワードの特徴である。
だからリワードをやめて本当にうれしいのはAppleやGoogleである。もちろんランキングが正しい傾向を出すという意味では、ユーザーにとっても正しい行為のハズであり、それをお金で買うことそのものが非難されるべきなのは、当然わかっている。しかし今のところ、それは社会的評価としては制約する方法はなく、あくまでもGoogleやAppleがリワードアプリをリジェクトすることでしか、この問題は解決していない。現実には仕様の不備を運用で解決しているということにしか見えない。
このリワードをやめる表明が社会的評価として認められて、GMOペパボの株価が上がるとか、応援するファンが増える姿が本来は正しいし、そうなって欲しい。しかし、わからないけど、そこは現状、投資家には判断されないような気がする。上場企業の本質的には悪そうなことをギリギリまで追求して、ギリギリアウトにならないことをやることで、売上利益で評価される方を選ぶのが望ましいのでは?と思う部分もある。それこそが、ネットでならやったもの勝ちという価値観が、上場企業のコンプライアンス評価に連動しないという部分に繋がる。
そういう意味では、この話は、いろんな意味でペパボらしい判断だなと思う部分は多々あるわけで、OBとして純粋にうれしい。
ネット上はグローバルな世界なので、国の法律よりもプラットフォーマーの振る舞いが行動制約上の法律になるケースが多い。この世界で生きていく限りそれは甘んじて受け入れていかねばならない。そもそもリワードで大金を投じても上位に出たいというランキングそのものがプラットフォーマーの胸先三寸だからだ。SEOも全く同じ話である。
そしてネットは、それこそパソコン通信の時代から、リアルな社会の自分とは違う世界での自己開放という側面が多く、それを支えるために匿名性などが闊歩してきた。ネットユーザーの側が、積極的にネットのアイデンティティと、自己の社会的存在とを切り離してきたとも言える。それ故に、一番ネットのことを詳しいユーザー層の「かくあるべし」と、企業の売上を支える「普通のユーザー」との間には情報の断絶があり、そのせいでネット由来の視点は社会的評価に直結しないという構造がある。ガラケーからスマートフォンになって、プラットフォーム上ではP2Pで繋がる可能性は出てきたのに、実際の所、情報断絶は存在したままだ。むしろマイノリティとしてのPC由来のネットユーザーという構図の方が大きくなってきた。
一時的に、はてなブックマークで少々ネガティブコメントがつこうが、twitterやfacebookで共有されても、あっという間に忘れられるし、そもそも、主要ユーザーの心に刺さらない程度の不誠実な行為であれば、別に誰も気にしないし、そんなもんだよね、でスルーされてしまうということが存在していると思う。すごい簡単にいえば、高木先生にロックオンされなければ問題にはならない、とかね。
それはそれでいい面があることは感覚的に認めた上で、ただその代償として、インターネットビジネスが大人になる機会を捨てているのは否めないのではないだろうか。インターネット上の活動と、それを支える企業のブランドや、個人であればユーザアカウントというアイデンティティに社会的評価が宿るのであれば、それは新しいリアルな価値観と直結することが期待できる。そうでなければいつまで経ってもインターネットと言う名のエンタメプラットフォーム上でのゲームをビジネスと呼ぶ視点からは逃れられないような気がする。
インターネット上の評価が社会的評価に連動する価値観が生まれてこそ、ネット選挙は力を持つだろうし、本当のインターネットベースの社会が生まれ始めるように思える。
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