ネットは自分の鏡

パソコン通信から始まってネットワークは結構長い方なんですが、パソコン通信の頃には、狭い世界が故に起きていた起きていたトラブルが、インターネットの時代になって、経験しにくくなっているのを感じています。

それが人類の進化なら良いのですが、決してそんな気はしていないのです。

昔起きていたトラブルでありがちなものは、

・1つの掲示板の運営をめぐって、参加者間でトラブルが起きた。
・オフ会の運営を巡って、意見がわかれてトラブルが起きた。

というものです。

こういうの話を見たのは、最近ですと、はてなオフだったんでしょうかね。外野でしかないので、断片的な話題を見た程度でしたが、何か懐かしいものを感じました。

1つの場を巡って、わざわざ議論をするということには相応に目的意識があって、そこには、

・共通するコミュニティへの愛
・決して分かり合えない価値観の違い

というのがベースにあったりします。

おそらくですが、オープンソースではこういうことが起きているんだろうなぁとは、オープンソースの言語系イベントに参加すると垣間見える瞬間があります。ソフトウエアという1つの場にある愛をめぐる戦いとでも言いましょうか。

それに対して、Webで主流となってきたコミュニケーションは、徹底的にこういうことが起きる可能性が排除されてきたように思えます。

・2ちゃんねるは、匿名性であることで必要のないしがらみは極力排除し、スレッドが999個の書き込みで終わらせてしまうことで、話を分断させてしまうことで、議論を継続するためには熱意の度合いを求められる仕組みになっている。
・ブログは、そもそも「自分の城」をみんな持つので、利害を共有するコミュニティそのものが存在しない。
・Twitterは、フォロー、ブロック、リムーブという構図で、「興味のある人がタイムラインをsubscribeする」という構造になっている。
・Facebook以降は、友達だけの世界に閉じた。

もちろんコテハン同士はいろいろあるだろうし、Twitterなどでは、自由に返信できることで、粘着な反論者に耐え切れず去っていく人も多々ありますし、ブログも炎上してコメント欄や、はてブコメントに多様な意見や感情論が流れることもあります。

ですが、「1つの場を巡る戦い」というのは構造上起きづらく、その気になれば、オーナーサイドにスルー力さえあれば、いくらでも突っぱねることができる構造になっています。特にブログ以後は、これが海外らしいデジタルコミュニティの住み分け方なのかと思うお見事さを感じています。gitもさまざまな問題の先にできた概念ですよね。

一つの場を共有する掲示板のようなコミュニティにおいて、住み分けは戦いの結果の停戦状態のようなものです。

双方に傷ついた結果にたどり着くことが多く、それを見ている人たちは沢山のことを学びます。掲示板の世界では、お互いがフラットな関係性であるが故に、ぶつかりやすい状態になり、大人の対応というのを覚えていくわけです。

それに対して、ブログやTwitterは、元々、他人を排除しやすい構造だったが故に、いざ対応を避けられないトラブルが起きると、あまりにも自分の本心や性格が表面に出やすいのかもしれません。そしてそれがハイパーリンクを通じて共有される速度は異様に早いです。

別に、この話にオチはないのですが、ネット上で起きることは、人間である相手がいてこそ起きるものです。だからこそ「ネットで自分に起きることは、自分の鏡」であることを踏まえて、相応にクレバーに行動できたほうが望ましいなぁとは僕自身は思っています。

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