自分にとって価値あるコミュニティと、giveの力に依存するネットコンテンツ

自分にとって価値あるコミュニティとは、

1.自分の知らないことを得ることができる
2.自分が間違っていることを言っていたら、間違っていると教えてくれる。
3.(そのネットワークにおいて)自分の存在を認めてくれている。

かなぁ。

「1」は自分が他人をフォローしていけば情報は得られる。
「2」は結構難しい。それができるか否かは「3」にかかっていると言っても過言ではないだろう。

どんなに間違ったことを書いても、こいつ面倒くさいなと思われたらスルーされるだけだし、わざわざ相手を批判することを言うのも嫌だからスルーしてしまうことだってあるだろう。

結局、何かレスポンスを送るというのは、その人にとって指摘する価値とのバーターなのだと思う。

例えば、若さは絶対的な正義だ。期待している若い人を支援したい気持ちは万人共通と言えるだろう。偉そうに教えるかどうかは人それぞれとして。
また、同じ職場で仕事をしていれば、相手の間違いが全体の不利益をもたらすと思えば指摘するだろう。これは利益や不利益を共有するからだ。

巷でモヒカンと呼ばれるような人は、間違っていること自体が気になるのか、はてブやコメントを通じて教えてくれたりする。時に強い口調で言われることもあるが、基本的には、こういう人を「とても良い人」だと思っている。

しかし、ピンポイントで友達に反応してもらえるならまだしも、バーチャルグラフでその体験を得るのは結構難しい。それこそブログは、1日に生産される記事が山のようにある中で、適切な知識の人の目にとまるのは難しい。だからこそ極論で関心を得たいと思うことはある。あえて目に止まりやすいタイトルや内容にし、ある程度のPV、RT、シェアが稼げないと、さまざまな人の目に止まりにくく、書きたいことを書いてるだけではツッコミをもらえる可能性は低い。

情報がどんどん増えていき、情報を最適化して摂取する手段が増えているいまだからこそ、そのフレームワークから外れた情報に対する関心を得るのは難しくなっている。例えば、渾身のネタで、他人に有益と思われる記事を発信している場合は、Gunosyやはてなブックマークを通じて見てもらえる可能性は高いが、少しでも「教えて欲しい」という弱気なスタンスの記事だと、ちょっとヒネらないと関心を得るのは難しいのではないだろうか。

掲示板サイトやQ&Aサイトであれば、1つの場を共有する中で回答をもらえる可能性は高いと思うが、そういうところに上げる手前の疑問や感覚については、今だと、直接会った人に聞いていることが多くなっているような気がする。

つまり、カジュアルに会話を交わすネットコミュニケーションが死につつあるということか。昔のパソコン通信には、どんなところでもフリートークの掲示板があって、行き先の曖昧な話題や悩みについては、そういうところで共有できていたが、あれは参加者の母数が少ないからこそ成り立っていたと考えるべきか。今だと話題の強さ(時事性、メッセージ性)によって、情報到達可能性が決まってくる。

最近は、バイラルメディアのようなメッセージ性の強いサービスや、コンテンツを売るサイトまででてきた。売るところまで行くと、記事に対してgiveの力が圧倒的に重要になる。そういう記事がソーシャルのトラフィックの関心を得ていくと、もはや「giveではない」コンテンツは行き先がないということか。

と、ここまで書いて、何を書いてんだ俺、と消そうかと思ったけどアップしちゃえ。いわゆる夜中のポエムという奴ですね。

#そういえばツイキャスは、この「フリートーク」が成立しているコミュニケーションサービスであるな。ツイキャスも人気が出るCAS主ほど圧倒的なgiveの世界ではあるのだが、その中に雑談を差し込むことは普通にできるし、何百人何千人と集まらなくても、10人ぐらいのフリートークなら多くの人でも実現は可能だ。それがウケているポイントではないだろうか。僕は、ツイキャスのことを「放課後メディア」って呼んでる。

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